編集の学校/文章の学校

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前職コンピューターソフト開発者から転身ライター・カメラマンへ

シギー吉田さん(41)
「評論・ノンフィクションを書く」修了「ノンフィクション・ゼミ」修了

SIGGY YOSHIDA
高校時代、ラグビーの練習中に首の骨を骨折すると言う大怪我を負うも、奇跡的な回 復で歩行が可能になった「松葉杖のカメラマン」。94年、オレゴン大学卒業。99年、東京原宿で初の個展「ヒッピー
in 90S ~約束の地にて~」を開催。01年、02年、 和太鼓集団「鼓童」、伝説のロックバンド「頭脳警察」の公式カメラマンに。ライターとしても、『音楽誌が書かないJポップ批評』(宝島社)『Switch』(スィッチ・パブリッシング)等各雑誌で執筆中。

コトバと写真で伝えたい。だからライターとカメラマンの二足のわらじ

昨年パレスチナにいきました。といっても、戦場取材を専門としているわけではありません。きっかけは、講義中に「ノンフィクションゼミ」の講師である今拓海さんに見せていただいた1本のビデオです。今さんは、中東を何度も取材しているルポライター。取材の一環として撮影したものでした。

とても楽しそうにサッカーをしているパレスチナの子どもたちが映っていました。戦争中であれ、彼らにはそうした状況とは無関係の“日常”もあるということにそのときはじめて気づかされたんです。その“日常”が戦争のためにある日突然無くなってしまうことも。無性に、ここへ行って彼らに話を聞き、写真を撮りたいと思いましたね。
『地図にない国からのシュート』(今拓海著 岩波書店)には、ボクが撮った写真もたくさん入っています。すぐそばで爆発があったり、銃を突きつけられたりと何度か危険な目にあいながら今さんの取材に同行して写したものです。
この本で、少しでも“紛争地域に生きる人”を知ってもらえたらうれしいです。

前職土木設計会社社員から転身『野球小僧』編集者&ベースボールライターへ

キビタ キビオさん(34)
「評論・ノンフィクションを書く」修了「ノンフィクション・ゼミ」修了

KIBIO KIBITA
大学卒業後土木設計の企業に就職。しかし、もともと好きだった野球への想いを捨てきれず新しい道を模索して、「編集の学校」へ。以後足かけ6年間学校に通い続ける。2002年に会社を辞め、当初はライターとして白夜書房『野球小僧』や廣済堂出版『草野球王国』などで取材、執筆をしていたが、その後、白夜書房『野球小僧』編集部に勤務。現在はライター兼同誌編集者として活動中。

信頼できる講師と出会い、気がついたら6年も通学

他人と違う“武器”を持つことや自分のライターとしてのスタンスを認識することで、いまナニをすべきかが見えてくる。これは講師から教わったことです。

『野球小僧』の編集部に売り込みにいったのが、出版業界へ入るきっかけです。野球に関わる仕事がしたいと思ってはいたものの人脈もなければコネもない。自分で動くしかなかった。売り込みに行った編集部では、編集長から“野球について測ってみる”という企画を逆に提案されたので、早速取材することに。それをデータにおこし再度編集部へ行きました。結果、それが認められ、“炎のストップウオッチャー”というコーナーでライターデビューできたんです。

学校の授業では、バッテングマシーンをテーマに長文原稿を書き、家に帰っては野球情報を集めてサイトをつくっていました。講義日以外も、懇切丁寧に指導してくださった講師のもとで、蓄積したものがあったからこそ仕事にできたと思っています。「これがやりたい!」と思ったら、納得いくまでやってみてください。

前職旅行サービス会社社員から転身編集プロダクション所属TV雑誌ライターへ

嵯峨 麻衣子さん(29)
「編集者・ライター養成基礎コース」修了

MAIKO SAGA
大学卒業後、電機系列会社、旅行サービス会社勤務。物心ついた時から活字が好き。本や雑誌を読むことや、文章を書くことだけでなく、活字そのものやロゴを見るのも好きだった。「編集の学校」卒業後は、TV雑誌の仕事を第一目標に就職活動。現在は番組表ライターとして活躍中。

一度不採用になった編プロに再チャレンジ

TV雑誌の番組表を作成しています。今の職場は2度目の応募で採用されました。一度落ちたもののあきらめきれず、翌年も応募。面接官の方は覚えていてくれました。「どうしてもTV雑誌をやりたい」という思いをこれがラストチャンスとばかりぶつけた結果、やる気を評価していただけました。

学校での思い出はたくさんあります。様々な分野の編集者やライターの方々に、毎回、全く違う角度から課題を講評していただけたことが印象に残っています。

自分のカラーは保ちつつも、凝り固まった考えは一度捨てて、チャンスがあれば何でもトライする。時には、先生方に企画を売り込むのもいいでしょう。最初は空回りすると思いますが、「やる気だけあってもね……」などというコトバにくじけず、改善に改善を重ねて何回も挑戦する。そうすれば、何かしら得るものがあると思います。
ガッツも立派な能力の一つですよ!

クラスメイト同士で、リトルマガジン『かたりね』4月7日創刊

前職 web関連事業主から 転身 web関連事業主&リトルマガジン制作者へ

前職 会社員から 転身 会社員&リトルマガジン制作者へ

伊藤義浩さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」「評論・ノンフィクションを書く」修了

ITO  YOSHIHIRO
1981年北海道生まれ。2007年にweb関連事業で個人事業主として独立。翌年、何の知識もないまま期間限定のインタビューマガジンサイトを開設。この見よう見まねでやったインタビューやテープ起こしなどがきっかけで文章に興味を持つ。2009年「編集の学校」へ入学。卒業後「編集者・ライター養成基礎コース」の同期生齊藤美緒とリトルマガジン制作に取り組む。2011年4月7日寄付金付きのリトルマガジン『かたりね』を創刊。
HP:http://katalne.com/
ブログ:http://ameblo.jp/katalne/
ネットショップ:http://katalne.com/shop/

齊藤美緒さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」修了

SAITO MIO
1982年生まれ。大学卒業後、一般企業に就職するも本に携わりたいという夢は消えず、一念発起。2009年に「編集の学校」へ。在学中に大好きなリトルプレスの作り手になることを決意する。同校修了後、クラスメイトの伊藤義浩とリトルプレス作りを始める。2011年4月リトルマガジン『かたりね』を創刊。現在、会社員の傍ら一人前の編集者になるため勉強中。

仕事を持っていても、編集者・ライターにはなれます。まずは、やりたいことを明確に。

私たちは二人とも専業の編集者・ライターではありません。それぞれ別の仕事も持っています。今の仕事を辞める勇気はないけど、出版業界にも関わりたいと思っている方もたくさんいると思います。私たちもそんな気持でスタートしました。

2011年4月7日に二人でリトルマガジン『かたりね』を創刊しました。「生みだす人々の物語」をコンセプトに、こだわりを持って何かを生みだしている人たちに会いにいく雑誌です。右開きにも左開きにもなる両面仕立ての作りとなっています。創刊号に限り、雑誌売上の50%を東北太平洋沖地震の復興支援に充てる「かたりね義援金プロジェクト」も開設しました。

『かたりね』が生まれたきっかけは、2009年10月期「編集者・ライター養成基礎コース 土曜クラス」で、私、伊藤と齊藤がクラスメイトとなったことが始まりです。翌年の3月、卒業が近づいてきた頃、私は講義実習で齊藤にインタビューをしました。ふとしたきっかけで、雑誌作りの話で盛り上がり、半ば齊藤の熱意に押されつつ&生来の好奇心が頭をもたげたこともあり、一緒に作ることになりました。構想から創刊までに約1年。当初から両面仕立てにすることは決まっていましたが、雑誌名や内容を決めるのに予想以上に難航。その上、表記統一の重要性に気づいたのは、二人とも記事を書き終えてからという始末。統一させるために創刊が1か月遅れました。しなくてもいいようなミスもたくさんしましたが、今後、どんどんいいものにしていくためには必要な過程だったと思っています。

齊藤は「自分のレーベルを持つこと」が目標です。近い将来、絵本などを作ることがあるかもしれません。私の場合、まだ明確にはなっていませんが、この時代に生きている政治家から普通の主婦(夫)までありとあらゆる人々をインタビューしたサイトを作ってみたいと思っています。それを今の時代を知る時代考証として、後世に残せたらいいなと。

ある偉人が言っていたことですが、行動する者にしかチャンスは訪れません。ただ、もしかしたら、チャンスは想像していた形ではやってこないかもしれない。私も、自分ひとりで媒体を作ろうと思っていましたから。でも、結果的には二人でやることになった。齋藤が半ば強引に巻き込んでくれなかったら、もしかしたら「フリーペーパーを作る」という夢は、先延ばしになっていたかもしれません。何かピンと来たら行動する、という方法もあると思います。結果的にそれが夢に近づくきっかけになるかもしれません。

『かたりね』

前職 作詞家&IT企業広報から 転身 作詞家&ライター&広報ウーマンネット主宰へ

伊藤緑さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」「ノンフィクションゼミ」修了

ITO MIDORI
OL経験を経て、1997年9月作詞家デビュー。CHAGE、石嶺聡子、鈴木聖美などのアーティストや、吉野紗香などのアイドル、アニメ「テニスの王子様」やゲーム「THE IDOLM@STER」等、性別、年代、ジャンルを問わず、作詞を手がける。作家事務所所属時代を経て、現在はフリーの作詞家として活動。2001~2004年までは、作詞家活動と並行して、IT系ベンチャー企業にて広報業務を行う。現在は、その経験を生かし、「広報ウーマンネット」を主宰。2004年からは、フリーランスライターとして、雑誌や書籍に関わる。

また、音楽系の専門学校で非常勤講師や広報の講座の運営などの活動、PRウーマンとしても活躍。編集の学校でも、1dayセミナー「週末ライターで稼ぐ!―会社員を続けながらデビューするヒント」の司会を務める。

気が付けば、やりたいと思ったことは、すべて仕事にしてきた。

いつの間にこんなに肩書きが増えたのだろう? というのが正直なところです。作詞家、ライター、専門学校非常勤講師、PR、イベント企画・運営、広報ウーマンネット代表、KOTONOHA FACTORY代表、神楽女会主宰など。これらは、形だけでなく、すべて実務をともなっています。名刺も状況に応じて3種類を使い分けていて、打ち合わせで、話しをしているうちに「実はこんなこともしているんです」と、結局3枚の名刺を出すことになる場合もあります。
これらの仕事は、すべて自分がやりたいと思って始めたものです。気が付けば、やりたいと思ったことは、全部仕事にしてきたともいえます。ですから、正直ストレスはあまりありません。ただ、これからは、個人ではなくチームを作っていかないと仕事をまわせなくなるなとも感じています。チームは、私の今の課題です。

2004年にフリーランスになってから、こうした仕事のスタイルになりました。28歳までは、出身地である愛知でOLをしていました。いわゆる「9時5時OL」。人事部で制服を着て仕事をするという世界です。ただ、当時作詞家になる夢があり、28歳で上京。その後は、派遣社員などをしながら生活していました。その後、2001年にITベンチャーの広報の仕事をしたことで、仕事への認識が変わりました。「仕事は待っていても来ない。自分から取りに行こう」と。派遣社員のときは、自分の時間を売ってお金をいただく、という気持ちもありましたが、今は、まったくそういう考えはありません。

2011年3月11日に、東日本大震災が起こりました。そのとき、自分にも何かすることがあるのではないかと思い、広報ウーマンネットの代表として、企業と支援先のハブとなる動きを開始。1200名の方に、企業レベルでお願いしたいことというメールを書きました。正直、とても勇気がいりました。でも、やってみたら、多くの広報ウーマンが協力してくださり、情報を送ってくださったのです。そこで、その活動を伝えたいと思い、『日経WOMAN』の編集長に寄稿をさせてくださいとお願いして、記事を書かせてもらいました。それに続いて、livedoorの『才職兼美』でも書かせていただきました。
どちらも、「自分から取りに行った」ものです。私にとって文章は、原稿料だけでなく情報を伝えるための場所だったり、自分を表現したりする場です。ですから、今回のことに限らず、音楽関係でも寄稿という形での記事を多く書いています。そして、その記事を見た方から、お仕事をいただくことあります。

そんな、ライターとしての生活ですが、本業は? と聞かれれば、「作詞家です」と答えます。2011年4月13日には、MARIAというアーティストのシングル曲「Deep into You」を共作させていただきました。また、これまで関わったアーティストへも、歌詞を書かせて欲しいとお願いして、今、まさに書いているところです。ライティングと作詞は、似て非なるものなのですが、私のなかでは、バランスよく存在しています。

とこんな風に書くと、順調にと思われそうですが、2009年は本当に仕事がなく、苦しい思いもしました。今も完全に戻ったわけではありません。やはり、フリーランスは、不安定な仕事です。そして、人脈と信用がすべてです。
ですから、自分の名前が出ない原稿も書いています。これは、生活のためもありますが、新しい世界を知るためでもあります。原稿を書くためには徹底的に調べますから、知らない世界の記事を1本書くと、それだけ自分の幅が広がります。好きな記事だけを、楽しく書くのではない。その意識も持ちながら、ライターとして、ゆくゆくは著者として、活動していきたいと思っています。

●東日本巨大震災~広報ウーマンができること
――日経WOMANオンライン 寄稿
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20110317/110394/?ref=top-shin

●震災から2週間以上経った今、広報ウーマンが自ら考え、会社に働きかけたこと
――livedoorの「才職兼美」 寄稿
http://news.livedoor.com/article/detail/5448235/?p=1
http://news.livedoor.com/article/detail/5448235/?p=2

●MARIA「Deep into You」
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=111486
MARIAオフィシャルサイト
http://www.universal-music.co.jp/maria/

就職活動中 転身 編集プロダクション勤務 編集者へ

山下真史さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」修了

YAMASHITA  MASASHI
大学を四浪後、非正規雇用の職場を転々。人生初の正社員だったSE職をリストラにより失う。突然の解雇にうろたえる中、たまたま見かけたネット上の労働相談コラムに助けられ、円満退職にいたる過程で「文章のもつ力」に素朴な感動を覚える。同時に自分も同じような力ある文章を表現したいと、労働相談のコラムニストが講師をつとめていた「編集の学校」へ入学。就職活動を経て、編集プロダクション入社。

100社落ちようが200社落ちようが、命まで奪われません

現在の仕事は、単行本の編集です。2月にはじめて手掛けた本『幸福脳を育てる9つの力』(森惟明著 日東書院)が発売になりました。

宝くじが当たる秘訣のひとつに、「当たるまで買い続ける」という、単純明快な説があります。以前、こんな話を聞きました。数字を当てる宝くじで、娘の誕生日と同じ番号を10年間ひたすら買い続けた人のエピソードです。あまりにも当たらないので、たった一度だけ別の番号を買ってしまった。そうしたら、なんとその時だけ今までさんざん買い続けてきた、娘の誕生日の数字が当たってしまったという、まったく笑うに笑えない話。

就職もこれと同じだと思います。わたしは編集の学校修了後、90社以上の会社に落ちました。3社以外は面接すら受けさせてもらえませんでした。ただある時、一度不採用になった今の会社から連絡があり「採用できないが、熱意だけは感じた。だからフリーランスの編集者としてなら仕事を与えてもいい。ためしに一冊まとめてみろ」と言われたのです。それが冒頭でご紹介した本です。結果、本書をまとめた実績を評価されて入社することができました。

一生懸命がんばっているのにと、つらい思いをする時があろうかと思います。厳しい現状に思わずくじけそうになり、現在の自分が上り坂(順調)にいるのか、下り坂に(不調)あるのか分からない時もあるかと思います。けれど、実はそのときこそ、「まさか」という坂を登っているんだと私は思います。登りきったときに、自分がびっくりし、まわりもびっくりする素晴らしい景色が見える不思議な坂です。

出版不況だといわれる昨今、業界をとりまく状況は相当厳しいものがあるのだと思います。本当の競争相手は、出版不況でも多くの就職希望者でもなく、「もうダメだ」と思う自分の弱い心そのものなんだと思います。

100社落ちようが200社落ちようが、命まで奪われません。とことん挑戦し、夢を叶え
てください。いつか皆さんのご活躍を伺える日がくることを楽しみに待っています。

『幸福脳を育てる9つの力』(高知大学名誉教授 森惟明著 日東書院)

前職IT企業受付・電話交換手から転身フリーペーパー編集&ライターへ

竹中奈津子さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」修了

TAKENAKA NATSUKO
20代半ばに、古本屋でアルバイトをしたことをキッカケに本に興味を持ち、本と「友達」になる。次第に本に係わる仕事がしたいと思うようになり、編集の学校へ。修了して1年後、リーマンショックの余波を受け無職となり、フリーランスでライターを始める。現在、地元の情報誌で編集・ライターとして仕事を楽しんでいる。
http://mitsubachi3.blog73.fc2.com/

全ては「憧れ」から始まった。
好きなことを仕事にする喜びを実感しています。

本に係わる仕事がしたいと思っても、出版業界について何も知りませんでした。当時、契約社員として受付・電話交換手をしていましたが、多分、ここに居られるのもあと数年。次の仕事をどうしようと考えていました。私にとって、転職は身近な存在でした。職を変える度、心によぎる憧れの出版業界……。ダメもとで、次はチャレンジしてみよう。今、チャレンジしないと後悔する。そんな思いで約2年前、編集の学校の扉をあけました。

この学校で出会った講師、クラスメイトは、今まで私が出会ったことのない人々でした。 みんな「本」が大好き。本に対して「熱い」。心ゆくまで一緒に本の話ができる! 企画のこと、課題のこと、今流行の本のこと。作家のこと。文章を書く楽しみと苦しみを覚えながら、ずっと、ここの生徒でいたい、いつか、みんなと仕事がしたいと思いました。

11月末に、『ハチミツ色の日々』という本を出版しました。これも編集の学校に行ったからこそ、実現できたもの。まさか自分が本を出すなんて、考えてもいませんでした。在学中に課題として作った「出版企画書」を基に、趣味でやっている養蜂のことをブログに書き綴りました。出版に至ったのは、この企画書をクラスメイトだった小島知之さんが、7ヶ月間かけて出版社へと売り込んでくださったおかげです。学校スタッフからも、新人がエッセイを出版できることは稀と聞き、本当に有難いことなんだな、と痛感しました。

2年前に学校に通っていなければ、今頃私は、職を失い路頭に迷っていたに違いありません。今後も「友達」である本に、恩返しをしようと思います。

『ハチミツ色の日々』(竹中奈津子著 辰巳出版 11月末発売)

前職サラリーマンから転身ライターへ

峯尾耕平さん
「評論・ノンフィクションを書く」「ノンフィクション・ゼミ」修了

MINEO KOHEI
1979年東京都生まれ。苫小牧駒沢大学卒業。東京に戻ってから、就職もせずに20代前半をブラブラと過ごす。映像関係の仕事などについたりしたが、折が合わず退社。その後雑誌編集の仕事に就くも、過酷な労働条件に耐え切れず、ここも退社。しがない中小企業のサラリーマンになる。編プロ時代からの付き合いで週末ライターみたいな活動をしていたが、それにしてもやっぱりなんとか自立したいという思いで、編集の学校に通うことを決心。会社も辞めて背水の陣で、ようやく処女作の出版にこぎつけた。

行動を起こすと自分の本とか出せちゃうものなんです。

自分でいうのも恥ずかしいですが、もともとが小説家志望の文学青年でした。それがとうとう覚悟を決めてその夢を諦めることに。ちょうど30を目前にしたころです。それでもどうしても文筆家みたいな存在、生活に憧れは続いていて。そこで、まずはライターを目指そうと、学校に通うことに大きな抵抗を感じながらも、身の程を知るつもりでお世話になりました。

そもそも小説を書けるような才能も情熱もない自分ですが、そんなことに気付かないのが若さというもの。うすうす気付いてはいるけど認めたくないとか、原因をよそに追いやってただ夢を追いかけているうちは、ただ楽しかった。けれど時は経ち、結婚なんかもして、だんだん大人になると、なんとなくそういうものは自然と諦めるものでしょうけど、僕にはそれができませんでした。ようやく、自分は表現者のタイプではないということを覚悟をもって知ると、なんだか道が開けました。その覚悟があったからこそ、本を出せたのだと思います。皮肉っぽく聞こえるかもしれないけど、それが僕のパターンです。

まずは、自分がどんなタイプの人間なのか、それを知ることではないでしょうか。はっきりいって才能のある人なら、まずこのサイト見てないでしょうし、そもそも才能があればすでに世に出ているはずです。当然異論もあるでしょうけど、ここで学べるのは、才能とか胡散臭いものとは関係のない、社会的に編集者になりたいとかライターになりたいとかの具体的な方法です。簡単にいうと、それは「行動を起こす」ということ。今すぐ名刺を刷って、フリー編集者やフリーライターとして営業することができる人なら、学校は意味のないものでしょうけど、そこに二の足を踏むなら、まず起こすべき行動は学校に資料を請求することかも知れません。なんだか学校の宣伝みたいになっちゃいましたけど、とにかく「行動」が一番大事なのは間違いないです。行動を起こすと自分の本とか出せちゃうものなんです。

『松本人志は夏目漱石である!』(峯尾耕平著 宝島社新書 10月発売)

編集者の修了生が、ライターである修了生と一緒に本を作りました。

前職介護管理職から転身出版社勤務 編集者へ

前職企業の園芸事業部勤務から転身ライター&実家の果樹園就農へ

西村舞由子さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」修了

NISHIMURA MAYUKO
1971年東京都生まれ、北海道大学法学部卒業。卒業後日本最大級のローファームにて弁護士秘書を務めるも、夫の農業転身の夢に添うためあっさり北海道郡部へIターン。夫の原木シイタケ栽培を手伝う傍ら、町内書店にも勤務し、地方の地域社会・農業・経済事情をかいま見る。PC環境整備でかかわった福祉事務所で介護資格を取得し、地方福祉実践の機会にも恵まれる。ようやく仕事と生活が軌道に乗りつつあるところ、夫が大病に罹患。二人の故郷である東京に戻る。引き続き介護管理職を行うも、現場だけでは解決できないジレンマを抱え、「もっと大きな母数に資することができるのでは」との思いを強くする。35歳を越えて出版業界に転身。編集知識を学ぶため「編集の学校」に入学し、積極的にかかわる。現在、PC関連書籍出版社内における介護・医療関連分野開拓編集者として、自身の経験をベースに得た情報と照らしながら、現場目線の書籍提案・編集を行う日々。

シイタケ栽培、書店員、介護職員……。いままでの多種多様な社会経験と体感が編集の仕事に生きています。本づくりはその多様性こそが大切だと実感しています。

私の経歴を見ると、たいていの方は驚き「よほど飽きっぽい人間なのだな…」と思うでしょう。私だって、このプロフィールをもつ他の人を見たら「なんだこいつ」って思います。ふりかえってみて間違いないことは、どの場面でも渾身の仕事をしたということ。その結果、いろんな属性、地域、立場、価値観をもつ人と深く生でふれあうことができ、「友人」と胸を張って呼べる人物も多く得ました。本当はそうでなくても、ここに到達するためにいろいろな経験をしてきたのだとあえて思えば、全てのことは財産となりえます。私はいま、過去の財産をふりかえり眺めながら、現在の自分とつなぎ合わせて未来をつくっています。

介護の仕事をしていた時、「自分ないし他人の体の動きを器械的にとらえ、向上させることに執心する時代が来る」と痛感しました。それをもとに、筋肉や関節の動きをわかりやすくかみ砕いた書籍を企画し、発売半年で4刷と、好調な結果を残すことができました。また今回、編集の学校で知り合った橋本さんと農業関連の書籍を出版しました。農業は、よくある「農業マニュアル本」の通りにやっていれば上手くいくものではないことを、お互い肌身で知っていたから成立した企画です。これは先日発売になったばかりです。

橋本さんとは、学校の飲みの席でたった一度同席しただけ!でも、印象は強く残っていました。自分で所在を突き止め、いきなり直メールしました。著者のほとんどは直にアタックして見つけます。もちろん友人の紹介で知り合った著者もいて、大変有能でした。人とのつながりはもちろん運もありますが、ある程度は自分で引き寄せることができると思います。自分から垣根をとってアクセスすることが、思わぬ縁(えにし)を広げます。今思えば、編集の学校は、その機会をごく自然に与えてくれた場所でした。

今後、発信するためのいろいろなデバイスやツールが市場にあふれるでしょう。しかし、結局は、「ひと」の根本的欲求を知り、いま、誰が、本当はどうしたいと思っているんだろう、とレンジの広い想像をできる人物が、発信者として成功するのではないかと思います。その中で、自分の持つ素材(人脈含め)の活用法を見いだせるか否かは、本気度が試される場面でもあります。専門は大事です。近道だと思います。でもそれがなくても大丈夫。自身の経歴に必要なのは「真摯に取り組んだかどうか」。それだけあれば、どんな経歴も立派な「ネタ」として、胸を張って発信者になれる時代が、すぐそこに来ていると思います。

橋本哲弥さん
「編集者・ライター養成 基礎コース」修了

HASHIMOTO TETUYA
1980年千葉県生まれ、茨城大学農学部卒業。某企業の園芸事業部勤務を経た後、実家の果樹園に就農し、同時にライターとして独立する。以降、私たちにとって近くて遠い存在の農業や植物、それらの役割を「わかりやすく伝えること」をモットーに、自ら農業をしながら農業・園芸関連の書籍を中心に執筆。他にフードビジネス企業のフリーペーパーやwebコンテンツなどにも活動の場を広げている。

“本業”を活かして、ライターとして活躍。自分の強みを生かせば突破口は開けます。

私はいわゆる二足のワラジで活動を続ける書き手です。お世辞にもフットワークが軽いとは言えず、週刊誌のような慌しい仕事をこなすことはとてもできません。取材で全国各地を飛び回ることもあまりできません。

しかしながら私には、学生時代、サラリーマン時代、そして現在と、いつも接し続けていた「農業」という強みがあることに気付きました。広く浅くはできないけれど、狭く深く掘り下げることはできる。仕事が取材のようなものだ。そんなポリシーで学校の課題にも取り組んでいました。
すると偶然にも私の文章が偶然ある編集者の目に止まり、学校に通いながら農業の実用書の本文とコラムを書くことに。右も左もわからない私を支えてくれた、講師や学校のスタッフの方々、同期の仲間達には今でも本当に感謝しています。

私は次第に、農業とは畑仕事だけに留まらない、ということに気付き始めました。つまり「農業」とは切り口で、そこから様々な分野の仕事にリンクできるのです。たとえば、食育、家庭菜園、雑学、エコ、食料ビジネス……これらは私が実際に農業とのつながりで書いてきた仕事の一例です。食指を伸ばせば、農業という武器で、さらに仕事の幅を広げられると考えています。

またそのような核となる強みがあると、他人に与える印象も強くなります。「××といえばあの人」という売り込み方ができれば、今直ぐに芽は出なくとも、やがて誰かのどこかの企画とマッチするかもしれません。
実際私は、学校の交流会で出会った出版社勤務の修了生の企画で、一冊の本を書く機会も生まれました。自分の主張をするのはタダ。多くの人に話すことが、やがて実を結ぶこともある。そんな当たり前のことをあらためて実感しました。

私はこれからも二足のワラジを履き続けます。農業をして文章に深みが出る、そして文章を書くことで農業を盛り上げられる、そんな補完関係を実践していきたいです。

『最新 農業ビジネスがよ~くわかる本』(橋本哲弥著 秀和システム)

前職保険会社営業職から転身パン教室主宰者へ

宮下 由美子さん
「評論・ノンフィクションを書く」修了

YUMIKO MIYASHITA
1977年生まれ。北九州大学経済学部経営情報学科卒業後、生命保険会社に入社。セールスレディとして新人賞を受賞するなどトップクラスの成績をおさめる。2002年にABCクッキングスクールへ転職、新宿校でパンづくりの講師を2年間務める。同時に有名パン屋さんにてパンづくりを修行。2004年に長崎へ帰郷し、資金50万で「HAPPY PAN」教室を立ち上げる。順調に生徒数を伸ばし、現在、長崎、ハウステンボス、五島市、沖縄那覇市の4か所でクラスをもち、毎月100名以上を教えている。地元ラジオ局にて、毎週、パンの情報をリポート中。2008年より、「小さな教室コンサルタント」と称して全国の女性起業家のサポートを行っている。
ホームページのアドレス http://happypan.com

出版を視野に入れるのであれば、東京で現役で活躍されている方のライブな授業を、と飛行機通学。

編集の学校に行くきっかけは、パン教室の本を書く、というよりも文章の勉強を本気でやりたいと思ったからです。九州から日帰りで、通いました。帰りの飛行機に間に合わないので授業の最後の方に退室するということもさせていただいたり、また仕事が忙しい時期は欠席したりしましたが、とにかく講師の切通先生の指導が好きでした。

もしかすると、インターネットでの通信講座というものやカルチャースクール風のライター講座もあったのかもしれませんが、私は出版を視野に入れるのであれば、東京で現役で活躍されている方のライブな授業を受けた方が参考になるのではと思いました。その予感は的中しました。10名程の受講生、皆さんお忙しい社会人の方がほとんどでしたが、みなさん毎回課題を出されてました。それに、その方たちからの自分の文章に対する意見や感想はとても刺激になりました。切通講師も、いいところを褒めて終わりという指導スタイルではなく、著者になるなら、ライターになるなら、という視点で講評してくださいました。

卒業後も、ネットを通じて今でも同期の方とは交流しています。お互い、いい刺激になっていますし、お互いの文章を読み合っている仲なので、いまさら、取り繕う必要もなく、スムーズに関係が築けていると思います。これから受講される方は、1回、1回の課題にきちんと向き合い、教えをいただき自分の作品を一つ書きあげる事を目標に、最後までがんばってほしいです!

『自宅ではじめる 小さな「パン教室」』(宮下由美子著 日本実業出版社 2月発売)